事務長室から 記事|医療法人団豊徳会 介護医療院 東京多摩病院

事務長室から

2025/11/06

コラム、始めます。

コラム、始めます。 現在59歳。父の仕事の都合で、中学校までは国内外を転々としましたが、狛江育ちです。東京多摩病院は母方の祖父・松家豊(まつか・ゆたか=故人)が72年前の1953年、北海道から上京し現在の地に開設しました。
 当初は結核病院でした。余談ですが、院内で遊ぶことが多かった私は自然と免疫ができ、BCGの予防接種をしたことがありません。
 国民病だった結核も、高度経済成長期前に治療法が確立すると、機を見るに敏だった祖父はいわゆる「老人病院」に転換、叔父の康裕(故人)、3代目院長の金子博医師と戴いて多摩病院は今に至ります。
 50年も前から高齢化社会の到来は言われていて、さっさと方向転換した点、祖父の決断力はなかなかのものだったと、今は思わないでもありません。
 ただ、私にとっては、ビールを毎晩のように10本(もちろん大瓶)近く空け、部屋のドア前に並べていたり、「私たちのころの医師国家試験は『心臓は右にある』と書いても受かった」と豪語したり、「ボケはビタミンCで治る」(1985年、廣済堂)なる新書を出版して、テレビでTBS小島一慶アナのインタビューを受けたり、と正直「怪しい人」でした。
 私は毎日新聞の記者出身ですが、就職が決まった際も「満は政治家にでもなるのか」と真顔で問われ、鼻白む思いをした覚えがあります。そもそも新聞記者の道を選んだのも、無意識に「病院を継いで一生、狛江で過ごす」ことに抵抗があったように思います。
 ただ、いま事務長となり、日々多くの方々に感謝や労いの言葉をいただくようになると、一代で100床を超える病院を築き上げた祖父の胆力に感心せざるを得ません。そういえば、祖母は「太平洋戦争中、お爺ちゃんは日野原重明先生(故人、聖路加国際病院名誉院長)と従軍医で一緒に働いていた」と自慢することもありました。今となっては、「なぜ狛江に病院を建てたのか」など、真面目に掘り下げておけば良かったと、激しく後悔しています。
 という訳で、このちょっとした文章も、いつか記録として役に立つかもしれない、との野望もあるのです。医療福祉は門外漢ですが、専門家ではない視線で考えたことを記していきたいので、気軽にお付き合い下さい。

 「――死とはどんなものだろう?」「人間にとって、良い死に方ってあるのだろうか」。
 還暦を目前にして、こんなことを頻繁に考えるようになりました。というのも日々、事務長室のドアから新たな入所者、退所者(介護医療院では「入退院」でなく、正確には入所・退所と表現します)を目の当たりにし、当たり前ですが個々別々の事情や背景に心動かされるようになったからです。
 介護医療院は介護施設の一つに過ぎませんが、「日常的に医療ケアを必要とする人向け」という点で、病院スタッフや家族のサポートは欠かせません。そこには、独りでは決して完結しない人間の宿命や、高齢化社会の縮図が展開されていると言えるでしょう。
 この場で「老いて死ぬとはどういうことか」なんて大上段に振りかぶるつもりはありません。私には到底、無理ですし。ただ、この東京多摩病院で見聞きしたことを通じて、今の社会の有りようや介護医療界を理解していただく一助になればと願っています。
(随時掲載)

竹之内 満(たけのうち・みつる)

 1966年3月、旧・国立大蔵病院(世田谷区)で生まれる。高槻市、柏市を経て狛江3小からオーストリア・ウィーンに転居。狛江2中を卒業後、早稲田大学高等学院、早大政経学部経済学科。89年、毎日新聞入社。山口支局、熊本支局玉名駐在、東京本社地域面編集センター、八王子支局。東京社会部では警視庁(捜査2・4課担当)、遊軍では気象庁や調査報道班。2000年に外信部、アジア総局(バンコク)時代の4年間にアフガン・イラク戦争、スマトラ大津波など取材。宇都宮支局デスクで帰国後、法務室、社長室広報担当、デジタル報道センター次長、静岡支局長を経て退職。21年に東京多摩病院に入職する。
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